小説「蜘蛛の糸」について
たまに、本棚にある昔読んだ小説を読みかえしてみるのだが、その中に、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」がある。
2月に父の葬儀を終えてから、実家で読んでみた。
言わずとしれたこの小説、ご存知の方も多いであろう。私も初めて読んだのは、たぶん小学校高学年の頃だった。
あらすじはこうである。
お釈迦様が池のほとりを散歩していた折、地獄の底にうごめくカンダタという悪人が目に入った。お釈迦様は彼の善い行いを思い出し、助けてやろうと地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らしてみた。するとカンダタは糸にすがって登り始めた。しかし他の悪人どももカンダタに続いて登り始めたので、糸はその重みに耐え切れず、カンダタの直上から切れてしまい、悪人どもは再び地獄に真っ逆さま・・・
たしか国語の教材として読んだのだが、先生に感想を求められて、誰もが
「自分ひとりだけいい思いをしようというのは、良くないことだと思います」
というような感想を言った。また、今まで目にしてきたこの小説に関する感想文は、ほぼ100%それに近い。しかし私は、小学校のときからずっと、違う感想を持っている。どうも前述のそれとは明らかに違うのだ。
感想1
カンダタだけが利己的なのか、ということである。
私がカンダタの立場だったら、たぶん同じように一人だけ登り、他の者を排除しようとしたであろう(きっと私は利己的なのだ)。
また、糸にすがって登り始めた者も皆、同じように利己的である。したがって、カンダタだけを責めるのはおかしい。
感想2
蜘蛛の糸を垂らしたら、地獄に落ちている悪人どもが、自分だけ助かろうとして、われ先にとすがって糸が切れてしまうのは、お釈迦様には当然予測できたことではないか。
お釈迦様なら、そのような人間の業(ごう)の深さを当然ご存知であるのに、何故糸を垂らすような気まぐれをなさったか、それが不可解である。
こんな感想を先生に言えるわけがないので、今まで黙ってきた(笑)。しかし今回、本棚にある本をたくさん読んでみたら、小松左京氏も同じような感想を書かれていたので、ちょっとホッとした。
そしてさらに、この文庫本の解説を読んで、私は再度、ちょっとすっきりした。
そこにはこうある。
「カンダタは、向上し正義の尊い道に入ろうとする力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々を運ぶことができる。そしてその糸をよじ登る人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に『これは俺のものだ』という考えが起こるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう・・・・・・。この教訓を芥川が省いてしまって、ただお釈迦様に悲しい顔をさせたのである」
新潮文庫「蜘蛛の糸・杜子春」解説より
ちょっと分かった気がする。
しかしそれでも、何故、お釈迦様がこんな気まぐれの行動をしたのか・・・? 上の解説に書かれていることを地獄の悪人どもに教えようとしたのか? しかしそれは、どだい無理な話なのではないか・・・? そこがよく分からない。
長々と理屈を書いてしまった。
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コメント
いちごさん
こんばんは!
なんだか今の買い溜めの社会現象と重ね合わせてしまいました。
一人だけ良ければ良いのか?それとも・・・・
最近色々考えますが、人間の性というやつですかね。
投稿: わら | 2011年3月29日 (火) 00時11分
わらさん、おばんです。
買い占めにも似ていますね。性とか、業というものですね。
が、そこから逃れられないのがまた凡人なり・・・。
投稿: いちご | 2011年3月29日 (火) 22時11分