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2012年3月 8日 (木)

あれから1年

 2011年3月11日、金曜日。 
 まだ朝晩は冷えたが、それでも昼間は、暖かい日もあった。公園には梅の花が咲き、学生は受験やテストが終わったところで、あと少しで春休み。その先の進級や進学に期待を寄せていた。社会人は、新年度の準備に忙しく立ち回っていた。
 この日もそんなありふれた、春の一日として終わるはずだった・・・。
 

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 私は自宅に近いところの平屋の建物で、20人ぐらいの会合に出ていた。
 会合も半ばにさしかかった午後2時46分、地震があった。正確に言えばそれは、今後「東日本大震災」として日本と世界の歴史に刻まれる、大震災の始まりだった。
 当然、最初から凄かったわけではない。いつもの地震だと思い、皆話を続けた。しかし通常だと、初期微動が数秒あって、その後の大きい揺れが来るのだが、あの時の微動は5秒経っても10秒経っても、確実に強さを増す一方で終わる気配がなく、皆不安な面持ちで視線を合わせた。

 いよいよ地鳴りが強くなり、震度3ぐらいの揺れになると、建物全体が鳴り始めた。
「外に出たほうがいい」
 誰ともなくそう言い、全員靴を履いて、駆け出した。初春の茶色い景色の中、低い地鳴りとともに何もかもが小刻みに揺れていた。この時にはもう、震度4ぐらいだったろう。

 

 すぐに本震がきた。その揺れときたら、文字通り人間の営為を根こそぎ奪い取るようなもので、足を踏ん張りながら(こんな地震があるのか)と思った。道路、橋、看板、家、窓、電柱、電線、瓦、あらゆるものが音を立て、目に残像を残すような勢いで揺れた。そして、眼前の大地を、これほどの勢いで揺らすエネルギーの大きさに愕然とした。
 途中、猛烈に強いのが2回ぐらいあったと思う。自宅が揺れるのが頭に浮かんだ。

 揺れ始めて1分ぐらい経ったとき、20mぐらい先にある家の瓦が落ち始めた。ぶつかるわけはないのだが、皆「逃げろ」と叫び、後ずさりした。駐車場に停めたどの車も、サスのストロークの限界まで動いていた。走っている車はどうなのだろう。近くには道路があって、確かに見たのに、記憶には残っていない。あとで聞いたことだが、この時、遠方から電話がかかってきた人は、誰からかかってきたのか何を話したのか、全く思い出せないと語った。
 

 ・・・・・・・・・・・・・・。
 経験したことのない、長い、長い揺れがやっと治まった。本当に長かった。夢中で一瞬のことだったというのではない。
 部屋に戻ると、額縁や窓ガラスが割れて、一面に散乱していた。会合は中止。挨拶もそこそこ、皆車で走り出す。私はまず家に向かったが、既に信号は消えている。多くの人が通りに出て呆然と佇んでいた。断層、波打つ道路、崩れた塀、瓦。ボンネットに塀の直撃を受けた高級車。水を吹き出す水道管。交差点では渋滞が始まっていた。すぐにラジオをつけたが、その内容も全く覚えていない。

 

 自宅外観は無事だった。ギアを入れて駐車していたバイクは、スタンドが外れて塀に寄りかかっていた。猫の鳴き声が聞こえた。捜すと、植木鉢を置く棚の下で震えていた。2,3度撫でて中に入る。食器戸棚は全部開き、本棚が落下。火の元はOK。

 そして会社へ。途中、電気の消えたコンビニに目が行き、何となく弁当4個とペットボトル茶を5本ぐらい手に取り、さっきまで商品だったのが骸(むくろ)となって床に散乱している合間を縫って歩き、購入。会計は遅い手作業。
 会社、全員無事。一部の者を残して全員が帰宅することになった。しかし余震が絶え間なく襲う。暗くなりかけた事務所で本社に連絡を入れるが、強い余震が来る。かなりの恐怖。外に出ると、また余震が来る。男は立ったまま四方を見渡し、女子はうずくまる。
 実家へ行くと、塀の一部が壊れ(上の写真)、古い木造二階建の物置の土台は、外れていた。これは昨年末に解体したが、庭には空虚な隙間ができた。

 午後6時になると、あたりは完全な暗闇になった。大渋滞の幹線道路を除いては、家の灯りも街灯もない、真の暗闇。会社で懐中電灯を持って、何人もが点検や監視業務を開始した。
 携帯は不通。メールもできない。しかし操作しているとCメールが入った。次男の学校で行事があり、長男を迎えて3人一緒にいると言う。一安心。しかし道路は動かないと言う。弁当を買ったと返信したら大変驚かれた。

 

 心に余裕ができたので、ここでやっと周りに気が向いた。社内の発電機でテレビが点いていた。何気なく目を向けた私は、そこで初めて、驚くべき光景を目にする。点滅する「大津波警報」の文字と、津波の映像である。平野を燃えながら進む瓦礫のスープ、方向転換して逃げる車、マッチ箱のように流れるトラック、防波堤をはるかに超える黒い波、船・・・
 この時初めて、地震の大きさを知った。車のラジオでも聞いていたのだが、頭には入っていなかったのだ。

 21時頃、渋滞を避けて家に帰ると、家族は皆厚着をしてこたつに入っていた。30分の道を3時間かけて来たという。灯りがないので、ガスランタンを点けた。しかし彼らは、大きな地震が起きて停電になったこと以外、何も知らない。当たり前のことだが、激甚災害のとき、遠く離れた地域では、被害をテレビで即座に知ることができる。しかし、渦中にいる者には何も分からない。
 ダイナモラジオをつけ、皆で聞き入った。津波警報と被害状況を放送していたが、被害は軽く見て、その10倍はあるだろうと思った。
 しかし21時頃は余震関連のニュースが多かったのが、23時頃には原発の冷却ができないという報道が多くなった。発電所なのに全電源喪失とは何ごとか。これは歴史に残る事態が起きるかもしれない。
 頭から津波の映像が離れなかった。もしここに津波が来ると分かったら、どうするだろうか。何度も、津波の映像を思い出した。今こうして生きているのは、先祖がたまたま海辺に住んでいなかった、ただそれだけの偶然なのかもしれなかった。真っ暗闇の中、何度も何度も余震があり、不安な夜を過ごした。

 

 明け方、夢を見た。
 津波警報が出て、SBに4人乗れるか、苦心惨憺していた。子供よりかわいい猫をどうしようかと悩んでいた。そうこうしているうちに、足元に水が来て、どうにもならなくなった・・・。
 そこで目が覚めた。

 

 

 次男が起きていたので、一緒に外に出て、立ち○ョンをした。トイレの水が流れないから。
 明け方の漆黒の空に、夏の星座さそり座がのぼっていた。古来から、不吉の象徴のように言われるアンタレスの不気味な赤さ。 

 

 翌日会社に行くと、他の事業所から物資が届いていた。私は食糧係である。でも足りないので、車に2人、2時間かけて郊外の大型店舗に行き、3時間並んで食糧を確保。2日間ぐらいは、買い出しと物資の分配が続いた。しかし、カップラーメンとパンばかり食べていると、さすがに飽きてくる。
 別会社の厨房食料庫に忍び込んで見渡してみると、ケチャップ、マヨネーズ、みりん、カレー粉が目に入ったが、これらは、生活に余裕がないときには不要なものだとこの時知った。
 でも米があった。ミネラルウォーターとカセットコンロも届いている。そうだ、鍋でご飯を炊けばいいのだ。

 すかさず、アルミの鍋に米をガシャリと入れ、ミネラルウォーターを惜しげもなく注ぎ、研ぎ、カセットコンロの火をつける。初めての体験。ぢっと見つめる。少しぐらい不味くても、固くても、贅沢は言ってられない。誰も文句は言うまい。水加減は途中で調節すればいい。時々ふたを開けて中を見る。適当なところで完成としよう。
 火を止めて蒸らしてかき混ぜたら、おお、見事な炊き上がりだ。焦げ目までついてて、最高じゃないか。しかし塩分がない。いや、乾燥ワカメがあったから、まぶして入れれば色合いもよし、一石二鳥。
 こうして作ったワカメおにぎりは、飛ぶようになくなった。夏ではなかったので、衛生的な不安材料はなかったが、握るときには素手ではなく、ラップ越しに巻くなど最低限の気はつかった。

 それでも、炭水化物と油分しかとっていない。キャベツを買ってきた人がいたので、1個を千切りにした。厨房の包丁が切れないので、茶碗の底で刃を研いで、まあよし。千切りはもちろん、1mm幅だ。

 途中、若い奴が来て
「いちごさん、何してるんですか」
「キャベツの千切りだよ。ほら、よそ見しながらもできる」

 

 2日ぐらい、そんなふうに過ごした。しかし3日目あたりに電気もきて、おにぎりやご飯パックも届くようになった。食堂も再開したので、いちご製おにぎりの出番は完全になくなってしまった・・・。
 また不思議なもので、そうして毎日オヤジが働いていると、愚息どもはよく勉強した。してみると、今奴らがあまり勉強しないのは、オヤジが真剣に働いていない裏返しなのか。

 そして4日目あたりから、ガソリンがなくなりだした。朝のスタンド前は何kmにもわたる大行列。幸い、近くのスタンドと懇意にしているので、一定量を優先して確保してもらった。毎日行って様子を聞き、雑談をして帰ってくる。ガソリンを売ってもらうための営業活動。

 しかしスタンドの社長は、顔面蒼白だった。「このままでは殺される」 パニック寸前である。最後には夜だけ電気を消して営業し、知っている人にだけガソリンを売った・・・。

 

 

 

 

 1ヶ月が過ぎ、社会はかなり正常に戻った。

 原発について、多くは書くまい。しかし、今を生きる若い世代がこのような事態に向き合わなくてはならないことを、悲しく思う。

 この頃私の関心は原発と、津波の被害を受けた東北に向いていた。
 すなわち自分より北側である。南側は想像からすっぽ抜けていた。11日の夜、都内で帰宅難民者が大勢いたということを知ったのは、4月になってからのことだった。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
SevenFiftyです。

あの大震災で日本人の持つ自然観と言うのが、初めて実感できました。
普段は何の意識もしていない、日本人特有の気質のようなものです。
そして寺田寅彦が言っていた『天災は忘れたころにやってくる』の意味がようやく分かった。

投稿: SevenFifty | 2012年3月 8日 (木) 22時45分

SevenFiftyさん、おばんです。

>日本人の持つ自然観と言うのが、初めて実感できました。
ちょっと分からないのですが、『天災は忘れたころにやってくる』ということでしょうか。

完全復旧には、百年単位の時間がかかると思う今日この頃です。

投稿: いちご | 2012年3月 8日 (木) 22時52分

こんばんは!
1年が経ちますね。当日私は職場で地震を体験しました。
揺れが大きかったので、とうとう東京大震災が来たのかと思いましたが、
実は震源地は東北で、津波がひどかったというのをニコニコ動画で初めて
知ったのが夜になってから。

当日、近くのコンビニから食料と飲料水がなくなったのを鮮明に覚えて
います。なので、いちごさんが弁当を購入したのは正解ですね!
(飲み物はなくなっていましたが、ビールはなくなっていませんでしたね・・・・笑)

そして最近関東でも地震が起きるようになって来たように思います。

何かあったときの準備は必要ですね!

投稿: わら | 2012年3月 9日 (金) 00時52分

あっという間の一年でしたね。
あの日、私は仕事でお客さんを車に乗せて案内中でした。
新潟は揺れはたいしたことはなかったのですが、会社に帰ってテレビをつけたら
町を飲みこんでゆく大津波の映像が中継されていて
ただごとではないのだと思ったのを思い出しました。

我々は平穏無事に生活ができていますが
まだまだ先の見通しのたたない人が数多くいるのが現実です。

今年もどんなことができるか分かりませんが
ボランティア活動をやるつもりです。

どんな形であれ、忘れずにより多くの人たちに
支えてもらうことが大事ですよね。

投稿: nozo | 2012年3月 9日 (金) 11時33分

あの日、仕事が「介護施設の改修工事」の終盤で
塗装工事の管理をしていました。
一度の大きな揺れを感じ
「あれ? なんかおかしい! これ ヤバイかも」 と
職人さんが口々に自分の体が変調したと思っていましたが
管理事務所から「大きな地震」との連絡が入った頃には全員屋外へ避難していました。

そして、3.12 長野県栄村を襲った地震
夜 チョット不安だったけれど床について
しばらくした時「ゴーーー」と言う不気味な騒音と障子の向こう 外が 黄色く異様な色
まもなく 大きな揺れが襲った と同時に「ドシン」と何かに突き落とされたような揺れ
早々にTVをつけた。「長野県 栄村震度6強」 生きた心地がしなかった。

あれから 1年になりますね
私たちには、まだまだ、出来ることがあると思います。

小さな手でも沢山集まれば何か大きなことが出来るのですね。
人を信じて 仲間を信じて 己を信じて・・・

投稿: kamosika | 2012年3月 9日 (金) 21時04分

こんばんは。
あれだけ衝撃的なことが有ったのに、普通の生活に戻り始めると、
あの恐怖感や緊張感は薄れていくもんなんですね。
でも、一年を機に思い出すことも必要ですし、いまだ復興できていない地域に目を向ける事も大切ですよね。
今でも屋根にブルーシートを被せている家は多いですが、それに見慣れてきてしまっている感覚にも疑問を感じます。
一日でも早い復興を祈るばかりです。

投稿: utunosamu | 2012年3月 9日 (金) 21時40分

こんばんは。

もう一年が過ぎるんですね。
こちらは被害どころか、大して揺れる事も無く
テレビを見たらすごいことになってました。
まさに神戸の地震を思い出し、それ以上の光景を
テレビ越しに目の当たりにし、ショックを受けました。
もう大人なのに情けないですが、未だにあまりその手の
番組は見たくありません。
自分にショックが大きすぎて。
被災された方々の悲しさ、つらさ、やるせなさを考えると
本当に皆さんの強さに頭が下がります。

一年が過ぎ、復興が進めば進むほど、時が進めば進むほど
忘れてはならない、思い起こさないといけない
出来事であり、神戸同様に風化させず、心に刻んで
行かなければと思います。

今も色んな余波が残り、国が対応に追われています。
東京電力の対応、被災地の復興の対応など。
でもこれは国だけに任せず、国民みんなで考え
対応しなくては!と思います。
瓦礫処理もそうです。
私は全ての県で痛みを分かち合う為にも受け入れるべきでは!?

個人の思いを長々と....。
スイマセン、思うところ沢山有り過ぎまして。

投稿: グランCB | 2012年3月 9日 (金) 22時58分

1年何てあっという間ですね。
ああいう状況でも暴動や略奪無かったのは日本人の誇りでしょう。
犠牲になられた方、特に年少者(大川小学校の生徒)
何もできない幼い命が絶たれたのは悲しい限りです。

投稿: shingo | 2012年3月10日 (土) 10時19分

わらさん、おばんです。
わらさんの帰宅は問題なかったようですね。

コンビニの食料と飲料水は、夜にはなくなっていましたね。
確かに、ビールやコーヒーなどは売れ残っていました。
最近震度4から5の地震が多いので、心配です。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時12分

nozoさん、おばんです。
nozoさんも新潟で大きな地震を経験されてましたね。

>ボランティア活動をやるつもりです。
私にできるのは、福島に足を運ぶことぐらいですが、何度か行こうと思ってます。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時15分

kamosikaさん、おばんです。

>3.12 長野県栄村を襲った地震
あの地震は、関東でも感じました。この先どうなるのかと思いましたね。
些細ながら、できることをしていきたいと思います。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時17分

utunosamuさん、おばんです。
>あの恐怖感や緊張感は薄れていくもんなんですね。
そうですね、11日の不安な夜のような気持ちは、もう薄れてしまいました。

ブルーシートの屋根も多く見かけます。それと、家を解体したあとの空き地が増えました。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時20分

グランCBさん、おばんです。
>個人の思いを長々と....。
>スイマセン、思うところ沢山有り過ぎまして。
いえいえ、こんな個人的感想の記事にコメントをありがとうございます。

瓦礫処理の問題は難しいですが、全国民で受け入れるべきと思います。
反対意見もありますが、その裏には、政府の泥縄的対応と情報隠しがあることが残念です。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時23分

shingoさん、おばんです。
あっという間の1年でしたね。
暴動や略奪はなかったですね。コソ泥はたくさんいたようですが。
大川小学校の生徒、幼稚園に引き返したバスの園児、やりきれません。

投稿: いちご | 2012年3月10日 (土) 17時24分

おはようございます。
コメント遅れてすみません。
詳細な状況をありがとうございます。
思いは同じと思いますが、こちら福島県は尋常ではありませんでした。
おそらく、皆一瞬は死を覚悟したかた多いと思います。
私は、千葉の精油所爆発のニュースを知ってすぐ燃料不足を予感し
翌日の早朝にはスタンドで満タンにしてました。
しかし、それも束の間、月末は並んでましたね。
便利さが産んだ苦悩でしょうか?
またよろしくお願いいたします。

投稿: 風まかせ | 2012年3月11日 (日) 05時57分

風まかせさん、resが遅れてすみません。
福島の方なのですね。地震から原発から大変な状況が続いているとお察しします。

>翌日の早朝にはスタンドで満タンにしてました。
すごい洞察力ですね。でもガソリンは走れば減りますし、物資を買うのに走らねばなりませんでした。

便利さが産んだ苦悩、あるいは便利さの裏返しでしょうか。

投稿: いちご | 2012年3月14日 (水) 07時41分

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